一 向 庵

日本QA 研究会設立前後の裏話

その1.発端から設立準備委員会立ち上げまで

元 武田薬品工業株式会社中央研究所(理学博士)菊池 康基

はじめに
 私が、日本製薬工業協会(製薬協)・基礎研究部会の部会長に就任したのが1987年である。この部会には、加盟会社の安全性(毒性)研究所の研究者が多数参加されており、所長、部長クラスの方も多かった。部会は、一般毒性、癌原性、生殖毒性など7つの分科会で構成されており、その一つにQA(Quality Assurance、信頼性保証)分科会があった。
 1987年というと、医薬品の毒性試験法ガイドラインおよび医薬品GLP(Good Laboratory Practice)が施行されて4年後であり、各社が新薬の毒性試験を円滑に実施するために解決しなければならない問題は山積していた。このため、基礎研究部会では、分科会において各種毒性試験のガイドラインの問題点等を検討していた。一方、行政との折衝も多く、その対応の受け皿として、毒性試験法検討特別小委員会(毒性特小委)とGLP対応特別小委員会(GLP特小委)を、基礎研究部会の分科会とは別組織として設置し、基礎研究部会正副部会長はこれら特別小委員会の委員も兼任していた。
 これから述べるように、日本QA研究会設立は、私の3期6年にわたる基礎研究部会長任期中に起こった出来事である。検討開始から方針策定までは部会(分科会)内での事案としても、設立準備委員会立ち上げ以降は製薬協上層部の承認も必要であった。また、医薬品のみならず食品、農薬、一般化学物質等々、GLP試験を実施している業種は広く、関係する省庁も多い。QA分科会での検討から設立準備委員会、さらには設立委員会の活動について、支障なくできるように環境を整備することこそ、部会長としての責務と考え、黒子に徹することとした。

1.【発端 1987年8月】
 部会長に就任して間もない8月のある日、厚生省薬務局審査第一課との定例的な会合の時、内田康策課長補佐より、GLPに関し次のような提案があった。「GLP関連事項の通知や連絡など行政からの情報伝達先としては製薬協・基礎研究部会しかない。そこで、製薬協に加盟していない製薬企業、あるいは受託研究機関(CRO)のQAUにも連絡できる方策を考えてほしい。行政としては、GLP試験を実施している全ての機関に情報連絡のネットワークを広げ、公平性を確保したい」とのことであった。
 内田課長補佐には、部会として対応策を検討することを確約して、早速部会に持ち帰って、第1(QA)分科会の中村隆太郎(日本レダリー)分科会長と相談した(以後、登場人物の所属はいずれも当時のまま)。

2.【部会の対応】
 製薬協は、医薬専業メーカーでも新薬開発能力や売上高などの資格をクリヤーしないと加盟できず、異業種からの加盟には高い壁があった。CROの業界団体としては化学物質等安全性試験受託研究機関協議会(安研協)があったが、QA担当者は組織化されていなかった。そこで、正副部会長と中村分科会長との協議の結果、当面の対応策と、任期中(2年以内)を目途に将来構想を検討することとした。
 当面の対応策として、行政からGLP関係の話がある時は、(1)部会総会あるいは分科会会合にCROのQAUに傍聴してもらう、(2)日本製薬団体連合会(日薬連)と製薬協共催の講演会とし、安研協にも連絡しQAUの参加を認める、こととした。
 これと並行して部会では、(1)安研協にQAUの集りを設置することが可能かを打診すると共に、(2)CROや製薬協非加盟会社とのネットワーク構築が可能か、(3)基礎研究部会の特別会員制度(後述)の活用、さらに将来的な構想を考えるため、C官民の多くの関係者の意見を聴取することとなった。
 ここで、当時の基礎研究部会におけるGLPやQAUに関する活動状況について、私のメモなどの記録から振り返ってみる。

3.【QA分科会について】
 この頃の基礎研究部会の第1(QA)分科会の活動内容について紹介しておく。QA担当者の集まりとして、1980年代初頭より分科会活動を開始していた。1987年からは、中村分科会長、吉田秀雄副分科会長(大塚製薬)、富家弘子副分科会長(藤沢薬品)の下、59社、64名の参加があり、主に(1)コンピュータバリデーションと(2)受託研究機関の査察、の2テーマについて、実務的な面から検討していた。また、査察事例報告を定例的に実施していた。米国のSociety of Quality Assurance の年会には数名が参加していたようである。
 1988年に薬発870号としてGLPに関する改正が行われた。信頼性保証部門(QAU)については「各試験を査察し、試験施設、設備機器、職員、SOPに設定された方法、試験操作の実施、記録及びこれに係わる管理等が、GLPに従って行われていることを運営管理者に保証することを業務とする」「GLP試験施設及び試験の信頼性を保証するために、試験施設全体として体系的な信頼性保証の方法を設定し、運用するため、少なくても継続的に安全性試験を実施している試験施設にあっては、信頼性保証の責任者を置き、1人以上の者からなる常設的な組織とすることが望ましい」と初めて「常設的な組織」とすることが明記された。これにより、QA業務の重要性はますます高まることになった。
 1989年からは吉田分科会長、堤 淳三、および三浦昌巳副分科会長体制で、これまでの検討課題に加え、QA担当者の教育、海外QAUの在り方調査、FDA GLPの翻訳に取り組むと同時に、QA研究会設立に向けて準備体制を整えることになる。
 当時の製薬企業におけるQAUの状況については、基礎研究部会第1分科会の活動内容を紹介した私の講演録を参照されたい1)

4.【GLP対応特別小委員会】
 初めにも触れたように、GLP特小委は分科会とは切り離して行政対応のために設置され、その顔ぶれは、小委員長に原田喜男(塩野義製薬)、副小委員長には羽室行彦(武田薬品)と宇高奎二(日本ロシュ)、委員としては吉田(副部会長、大日本製薬)、小野寺(第一製薬)、矢原(鐘紡)、辰巳(日本商事)、野口(台糖ファイザー)、野崎(山之内製薬)と、所長、部長クラスの方々で構成されていた。担当課題としては、(1)医薬品GLP解説書の見直しや、(2)厚生省のコンピュータバリデーション研究班へ羽室、堀井(日本ロシュ)、野崎氏を班員として送りこむなど。当局とのGLP関連の情報交流に取り組んでいた。QA研究会設立構想については、大所高所からの意見具申と側面からの援助をお願いしていた。

5.【業界団体】
 ここで、当時の業界団体について概略を説明しておく。
 製薬業界には、業種別団体と地域別団体とがある。製薬協は業種別団体の一つで、新薬開発能力を有する企業の集団である。製薬協の医薬品評価委員会は新薬開発の基礎から臨床試験までの各分野の人材が集結した日本を代表する頭脳集団であった。このため、製薬協非加盟の会社でも基礎研究部会にのみ参加できる特別会員制度が設けられていた。地域別団体は各都道府県に置かれており、東京医薬品工業協会(東薬工)や大阪医薬品協会(大薬協)などである。これら全ての団体を統括しているのが日本製薬団体連合会(日薬連)である。異業種から製薬業に参入した企業は、業種別あるいは地域別団体の両者またはいずれかに加入しているので、日薬連には必ず所属していることになる。したがって、製薬協と日薬連共催の会合であれば製薬協非加盟の会社も参加可能であった。
 受託機関の団体としては、唯一、安研協だけであった。当時の安研協は、いわば経営者の集まりといった状態で、実務者レベルの活動はほとんどなされていなかった。また、準公的な財団法人の受託研究機関は安研協には加入していなかった。したがって、CROへのネットワーク作りは困難が予想された。

6.【QAU担当者の団体設立の可能性】
 9月には、正副部会長と中村、吉田正副分科会長との協議に基づき、部会としても次の3件について、各方面に働きかけることになった。
 1. CROのQAU担当者会結成
 2. QAU研究会設立の可能性
 3. 毒科学会の分科会としてQAU担当者会を設立することは可能か
 先ず、武田薬品中央研究所監査室長の羽室行彦氏の意見を聴取し、次いで慈恵会医科大学の大森義仁先生と懇談した。羽室氏は企業にあってGLPの帝王を自称する第一人者であり、大森先生は医薬品GLPの生みの親ともいうべき方であった。このお二人の賛同を取り付けることが不可欠と判断した。
 11月には、GLP特小委および毒性特小委の正副小委員長合同会議において、それまでの関係者に対する聴取結果を報告した。それによると、安研協にCROのQAU会を結成することには、安研協内部では否定的で可能性はほとんどないことが判明した。したがって、QAU(QA)研究会を設立するのがベターである。ただし、独立した研究会を作ることは極めて困難であり、毒科学会へ働きかけてQAの分科会を設置してもらうのが一番好ましいとの結論に達した。これを受けて、月末には国立衛生試験所(国衛試)にセンター長の戸部満壽夫先生をお尋ねして、これまでの経緯をお話し、QAUの研究会設立に理解と協力をお願いした。戸部先生や大森先生とはその後も何度かご相談申し上げ、大森先生から日本毒科学会の酒井学会長に話をして頂くことになった。
 12月には内田課長補佐に、QAの研究会を設立する方向に固まりつつあることを報告し、今後の行政の支援をお願いした。

7.【QA研究会設立構想の検討】
 翌1988年に入り、第1分科会では仮称QA研究会のようなQAUの団体を設立するとして、設立趣旨・理念、会員資格・範囲、活動目的・内容等について基礎的な検討を開始した。それと並行して、この構想について大森先生のお考えをお聞きしたり、厚生省薬務局審査第1課斉藤 勲課長と懇談したりした。大森先生は、QAの毒科学会分科会案はまだ時期が早いとのお考えであった。毒科学会の理事の先生方は、多くが大学に所属されており、GLPやQAUについて殆ど理解されていないことが大きな要因と思われた。
 1989年4月開催のGLP 特小委と第1分科会の合同会合では、QA研究会設立に異論なく、問題は事務局をどうするかに絞られた。このあと、中村分科会長とともに厚生省斉藤課長を訪問し、QA研究会設立について懇談した。席上、斉藤課長も、設立趣旨、会員の範囲、活動目的と活動内容については異議なく了承された。

8.【当局発信情報の共有化】
 QA研究会設立構想と並行して、厚生省からの情報の共有化のための対応策も実地に移された。1988年8月に開催した部会総会では、GLP特小委から特別講演として「厚生省研究班のコンピュータバリデーションに関するトピックス」があり、安研協所属受託機関16社のQA関係者の出席を認め聴講してもらった。
 1989年2月には、日薬連と製薬協との共催で、厚生省近藤査察官による「GLPに関連する最近の薬務行政について」と題する講演会を開催し300名の聴講があった。
 また10月には安研協主催のQAU講習会に協力するなど、行政の要望を受けて、業界におけるGLP情報の共有化に努めた。

9.【QA研究会設立の問題点】
 1989年5月に第1分科会長がこれまで副分科会長を務めていた吉田秀雄氏(大塚製薬)に交代し、QA研究会設立に向け本格始動することになる。分科会では、吉田分科会長、堤、三浦副分科会長体制の下、QAUに関する通常の検討課題に加えて、QA研究会設立に関する詳細設計として、設立趣旨、会員の範囲、活動目的と活動内容等について、綿密な調査・検討が行われた。
 ここで問題となったのが、研究会の事務局をどうするかであった。研究会の円滑な運営のためには、その活動を支える総務、経理等の事務局が重要な業務となる。事務局業務を統括するような人材はQA分科会内には見当たらないことから、当初より事務局は外部に委託するか、あるいは毒科学会の分科会として、いわば学会に寄生する形で設立することを考えた。しかし、毒科学会には、大森、戸部先生の働きかけにもかかわらず、QA研究会に設立意義を理解して頂くことはできなかった。また、厚生省斉藤課長より推薦のあった公定書協会にも説明に行き、事務局業務委託に関する資料を送付したが、色よい返事はなかった。この当時は、まだ学会や研究会の事務局業務受託機関は存在せず、打開案はなかなか見いだせなかった。

参考文献

1) 菊池 康基:

QAUに期待されるもの - GLPの実際と毒性試験の進め方 - 新医薬品研究開発フォーラム3、
(財)日本抗生物質学術協議会編、(株)ミクス、東京、P.32-46(1991).

- 次回に続く -

その1.発端から設立準備委員会立ち上げまで
その2.設立総会まで
その3.国際QA会議

経歴
菊池 康基(きくちやすもと)
北海道大学理学部生物学科動物学専攻卒
理学博士
1962年 2月〜1964年 9月 Roswell Park Memorial Institute (Buffalo, N.Y.)留学
1965年 1月〜1970年7月 国立遺伝学研究所・人類遺伝部入所
1970年 7月〜1993年11月 武田薬品工業(株)入社, 中央研究所薬剤安全性研究所
同社研究開発本部プロジェクトマネジャー, 審議役を経て退職
1993年11月〜2008年5月 轄総ロ医薬品臨床開発研究所 理事
この間、日本製薬工業協会(製薬協) 医薬品評価委員会 基礎研究部会部会長、
ICH Safety EWG (バイオ, 遺伝毒性) 製薬協代表委員、臨床試験受託事業協会理事、副会長、日本SMO協会理事、副会長を歴任。
2008年 6月よりフリー
日本環境変異原学会会員、日本環境変異原学会哺乳動物試験研究会 (MMS研究会)会員
日本トキシコロジー学会功労会員、日本QA研究会特別会員、安全性評価研究会特別会員

▲ページトップ