一 向 庵

日本QA 研究会設立前後の裏話

その3.日本QA研究会の組織・運営と国際会議

元 武田薬品工業株式会社中央研究所(理学博士)菊池 康基

●発足した日本QA研究会
【日本QA研究会の人事と組織】

 日本QA研究会(以後QA研と略記)の設立当初の組織は次のとおりである。

会長:大森義仁
会長代行(副会長):堤淳三(エーザイ)
会長代行補佐:吉田秀雄(大塚製薬)、三浦昌己(東洋醸造)
副会長:松本信太郎(山之内製薬)、野村章(塩野義製薬)、橋爪武司(第一製薬)
監事:村上武志(アップジョン)、石村勝正(日本生物化学センター)

 このメンバーが役員会を構成し、その下に教育、国際、行政の3部会(部会長には副会長が就任)と事務局が設置された。各部会は3〜4項目の研究テーマを設定していた。1992年4月の会員数は、法人としての登録数は147社、これら法人から各部会に参加する会員数は200名であった。
 こうしてQA研の活動は、GLPを対象に1992年2月以降開始されたが、当初は多難であった。幸い、事務局のサイエンティスト社が神田駿河台にあったことから、近辺には手ごろな価格の大小の貸会議室も多く、大野事務局長の世話で、役員会や各種委員会などの会合も行われるようになった。

【初めのころの役員会】
 設立総会の次の週、製薬協・基礎研究部会第70回総会が熱海で開催された。中心議題はQA研設立総会で、これが無事終了したことから、今後とも部会としてQA研をバックアップしていくことが了承された。また、特別講演は厚生省久保田査察官による「GLPの現状と将来」で、QA研の門出を祝福するものであった。
 設立間もないQA研の役員会には、私もアドバイザーとして出席し、会長の大森先生や三役の役員と意見を交換したりしながら、会の人事、組織、運営、経理等が固まるのを見守った。6月頃には、会の運営の見通しもついたことから、いつまでも部外者が役員会に出席すべきではないと判断し、出席を見合わせることとした。その理由には、この頃ICHの活動が本格化し、国内外の会議が増えて多忙になったことも挙げられる。

【大森先生のご叱責】
 数ヶ月たった秋のある日、大森先生からお電話があり、「最近、役員会がうまくいっていない。君が『会長として何もしなくてよい』と言うから会長を引き受けたのに、私が言わないとだれも動かない。君はQA研を作っただけで放り出す気か」とのきついご叱責であった。大森先生には、「そんな状況になっているとは知りませんでしたので,次の会合には必ず出席します」とご返事しておいて、すぐに電話で堤さんなど何人かに役員会の状況や雰囲気について問いただした。その結果、このところ大森先生のご機嫌は良くない、その傾向は夏以降次第に著しいとのことであった。
 次の役員会の前に、上京ついでに堤さんなど数人と会った。6月以降の役員会の会議の様子、大森先生と役員と間で見解の相違する案件は何か、役員会の決定事項が部会活動に反映しているか、次の会議で問題となりそうな案件など、事前に情報を仕入れておいて、役員会に出席した。
 会議の冒頭、私から「ICH関連の会議や海外出張のために、QA研の会議にはしばらく出席できなかったが、これからは都合のつく限り以前と同様アドバイザーとして出席します」と欠席の詫びを申し上げた。この日の大森会長は、案に相違して、至ってご機嫌もよく、堤会長代行の司会で議事も順調に進行し、その間多くの議論も行われ、当初懸念していたような事態は全く起こらなかった。
 会議の後の飲み会で、役員の皆さんが言うには、今日のように会長のご機嫌が良かったのは久しぶり、お陰で議事もスムーズに進行した、菊池さんが居ると居ないでは、会長の気分が大違いなので、今後も是非とも出席してほしい、とのことであった。
 想像するに、大森先生は責任感が強く、会長としてQA研が一日も早く立派に育って欲しい、との思いが強かったようである。まして、会長職は孤独であり、大森先生と役員たちとはそれほど長い付き合いではない。そのため、大森先生のそばに誰か付いて精神的なサポートをすることが必要だったのではないか。
 大森先生と私のこれまでのお付き合いの中で、毒性試験法ガイドラインに関する製薬協と行政との会議では、行政代表の大森先生に対しScience Base の議論で言いたいことをづけづけ申し上げたりしたこともあった。それが逆に、先生が私を信頼されるようになったのかもしれない。私のような者でも、お傍に控えるだけで、先生のお役にお立てばと、それからは日程の許す限り役員会に出席することとした。

【GCP部会設立に向けて】
 QA研設立の話が起こった時から、最初はGLP単独でスタートするが、GCPについても機の熟するのを待ってQA研の部会とするという構想があった。製薬協・医薬品評価委員会には臨床評価部会があり、私の基礎研究部会長就任と同時に、臨床評価部会長には同じ武田薬品の衣非脩氏が就任した。衣非氏は1991年に委員長に昇任し、後任の部会長は第一製薬の熊谷曄氏であった。衣非、熊谷両氏とは医薬品評価委員会の各種会合でしょっちゅう顔を合わせる仲であり、QA研設立後はGCPをどうするか、折に触れ話に出ていた。
 1993年3月、私が部会長を辞任するまでには、両氏から臨床評価部会の信頼性保証業務のグループをQA研に移し、GCP部会を設立したいとの話があり、協力を要請されていた。同年末には、GCPの中心となる人達とQA研の役員それぞれ5名ほどで、二部会制にするための話し合いの場を持つことになった。たまたま、私の定年後の勤務先が治験受託会社でGCPに係わることになったことと、QA研の特別会員に推挙されたことから、GLP とGCPの橋渡し役をつとめることになった。この時の主な顔ぶれは、GCP側が高木道郎、原信次、中江寛、木下真、松倉裕司等の諸氏で、いずれもGCP部会設立後、部会長等の主要なポストを担うことになる人たちであった。
 この話し合いは1994年初頭から1年間行なわれ、QA研の活動理念、組織、運営、分科会、事務局等について意見を交換した。見解の相違から時には激しい議論の応酬もあり、私がなだめ役になることもあったが、二部会制に移行することに双方異論はなく、QA研の役員会でもGCPを迎え入れるための準備に取り掛かった。
 1995年3月の第4回定例総会では、衣非脩医薬品評価委員長の特別講演「GCPの現状について」があり、1995年6月にはGCP特別部会としてスタートし、その第1回総会では熊谷曄臨床評価部会長がGCP特別部会発足の経緯について講演された。こうして、1年後の1996年にはQA研はGLP とGCPの二部会制として再出発することとなる。

●国際会議を日本で
 QA研設立総会にお祝いのメッセージを送ってきたInternational Society of Quality Assurance (ISQA) 会長のDr. Carl R. Morrisからは、日本にQA研が設立されたなら、QAに関する国際会議を日本で開催したいとの要請が度々寄せられていた(1991年10月、1992年10月)。QA研設立以前にSociety of QA (米国SQA)の年会に参加した人たちの中には、Dr. Morris と会った人も多く、その当時から、日本開催をねらっていたようであった。ただ、設立直後は、QA研の基盤作りが重要であり、国際会議の開催について検討するのは5〜6年先のことと考えていた。しかし、1993年夏にはDr. Morrisからの度々の要望(1993年2月、4月、6月)を無視するわけにもゆかなくなり、役員会として決断をせまられるにいたった。
 そこで、7月にQA研役員を中心とする国際会議準備委員会第1回会合が招集され、開催日時、会期、開催場所、経費等について、ISQAの要望を踏まえて検討した。結論として、QA に関する国際会議を1996年に開催すること、この準備ための組織委員会を1994年初頭に立ち上げることとした。8月にはその旨を大森会長よりDr. Morris に通知し、国際会議開催に向けてQA研の総力を挙げて取り組むこととなった。なお、この間の経緯については記録集4)を参照されたい
 本稿では、私が係わったプログラム委員会からみた事柄を中心に,思い出を綴ってみる。

【組織委員会 The Japanese Organizing Committee for 12th International Congress of the ISQA (JOC)】
 組織委員会(JOC)の委員には、広く産・学の協力を取り付けるために、大学等からは、GCP関係の医学部の先生方を含む13名、業界からは製薬協医薬品評価委員会を中心として、GLP、GCP、GMP関係の12名の方々に就任頂き、それにQA研より12名の37名体制とした。
 組織委員会の構成は、総務、財務、会場、ソシアル、プログラムの委員会とし、事務局は潟Cンターグループに委託することとした。
 役員構成は、組織委員会委員長には大森会長、さらに大森会長の強いご要望で柳田知司(実中研)先生に委員長補佐役に就任して頂いた。柳田先生は国際会議の経験も豊富で、実質的に組織委員会を取り仕切り、無経験者の集団を引っ張って頂くことになった。また、各委員会の委員長はQA研の組織委員の中から選ばれた(総務委員長:橋爪武司、財務委員長:三浦昌己、会場委員長:藤田光次、ソシアル委員長:中村隆太郎、プログラム委員長:菊池康基)。
 こうして、1994年1月に、第1回組織委員会が開催される運びとなった。

【国際会議の性格と名称】
 JOCでまず決めなければならないのは、会議の性格と名称である。そこで先ず問題となったのはISQAの実態であった。ISQAはこれまでに主に米国、欧州で10回以上シンポジウムを実施ており、International Society と名乗るからには、SQAや欧州各国のQA団体を組織化した会と思っていた。ところが実体は、ビジネスを主な目的とした団体であり、欧米のQA団体の国際的な組織化はほとんどされていないことが明らかになってきた。我々はInternational Society という名称に騙されていたわけである。しかし、共同開催を約束した手前、今更反古にすることもできない。
 そこで、ISQA主催のシンポジウム等がこれまでに欧米で11回開催されていたことから、正式名称を第12回国際信頼性保証会議(12th International Congress of Quality Assurance、 略称12th ISQA)とすることとした。第12回としたのはこの会議がこれまで継続的に開催されていることを示し、免税処置や補助金、寄付金を受けやすくするためで、柳田先生の知恵であった。次に主題については、ISQAの提案したInternational Harmonizationについては丁重にお断りした。そして、ISQAの過去の実績にとらわれず、日本開催の意義とニーズに合った会議にするべく、主題は「信頼性保証に関する国際的な将来展望」(The Quality Assurance Professional’s Contribution to the International Acceptance of Scientific Data: A Global Challenge)とした。
 会場は横浜パシフィコ、会期は1996年6月10日から14日までの5日間とすることを決定し、Dr. Morris に連絡した。
組織委員会はほぼ2カ月ごとに開催されることになり、それに伴い事務局会議、実務者会議、委員会会議も適宜開催されることになった。1995年3月には開催日時、開催場所、主要テーマ等についての1st Announcementを発送する運びとなった。

【ISQAが提示したプログラム案】
 1994年3月にDr. Morrisから送られてきたプログラムのドラフトを見て驚いた。GLP分野では医薬品関係は半分以下で、農薬、動物薬に関する項目がずらりと並んでいた。その中には、農薬のField studyなど日本では行われていない試験なども含まれていた。また、GCPについては数項目あるのみで、我々が考えていたプログラムの内容とは大きくかけ離れた内容であった。これには理由があった。当時の米国のSQAの会員のほとんどはGLP関係者で占められており、それがISQAの提示したプログラムにそのまま反映されていたのである。
 大森会長は、12th ISQAを開催するについては、可能な限りDr. Morris の顔を立てるようにとのお考えであり、そのことがあとあとも我々の頭を悩ませることになる。プログラムに関しても、折角わが国で開催するのであれば、日本のニーズに合った、参加者にとって魅力あるプログラムを企画せねばならず、Dr. Morris や ISQA側をいかにして説得するか、FAXのやりとりではとても埒があきそうにもなかった。

【プログラム委員会】
 プログラム委員長は、大森会長のご指名で、私が受けることになった。私は第12回国際遺伝学会(1968、東京)と第3回国際環境変異原学会(1980、東京、京都)で組織委員会総務委員を経験し、プログラムを担当したこともあり、プログラムの重要性を強く認識していた。私は1993年3月には製薬協の基礎研究部会長を退任しており、同年11月に武田薬品を定年退職し、轄総ロ医薬品臨床開発研究所の前身の潟宴rトン研究所に再就職していたので、同社の金田平八郎社長には、QA国際会議で多大の時間を取られることへの了承をすでに取り付けていた。
 プログラム委員会は当初は少数精鋭で構成しようと考えたが、ISQA側との交渉を考えるとそうもゆかず、GLP、GCP、GMPの3分野について専門家を中心にした組織とする必要があった。そこで1994年夏頃、製薬協・医薬品評価委員会の衣非脩委員長に協力を要請し、プログラム委員会の副委員長に松倉裕而(持田製薬)(GCP)、臼居敏仁(ヤンセン協和)(GLP)、河村邦夫(大塚製薬/近畿大学)(GMP)の三氏に就任頂いた。副委員長にはセッションテーマ、特別講演やシンポジウム、時間配分等について考えて頂くとともに、多少時間はかかっても委員については最良の人選をお願いし、それまでの間は、正副委員長会議を開き当面の問題に対処した。委員7名の人選が決まった1995年3月に第1回プログラム委員会を開催しセッションテーマの選定作業に入った。
 プログラム以外の懸案事項につては、1994年6月に柳田先生が組織委員会の見解を携えてDr. Morrisと会談されて、会議の名称、主テーマ、会期等について大筋の合意に達していた。しかし、プログラムについては両者の隔たりは大きく、解決は先に持ち越されていた。この問題を解決するためには、Dr. MorrisらISQA側と直接会って双方の考えを理解した上で調整しなければならない。
 そのためには、我々のプログラム編成上の基本理念をしっかり固める必要があった。そこで、プログラム委員会では、プログラム構成について検討を重ねた結果、日本開催で譲れない基本線として、以下のことを決定した。

1. GLP, GCP, GMP のセッション配分は3:3:1とする
2. GLPでは2/3の時間を医薬品に割り当てる
3. いずれの分野でも最新のトピックスについて、特別講演を企画する
4. 可能な限り、日米欧の多数の行政官の講演と参加を依頼する

 1995年10月フェニックス(Phoenix, Arizona)で開催されるSQA年会時に、ISQAとJOCの会議を持つことが決まり、私も大森先生はじめJOC役員の人たちと一緒に会議に臨んだ。

【2nd ISQA/JOC Planning Committee Meeting in Phoenix】
 ISQA/JOCの第2回会議では、第1回(New Orleans、1994年11月)及びその後の折衝で懸案となっていたプログラムと今後のスケジュール等について、2日間にわたり双方よりそれぞれ5〜6名の参加で協議が行われた。プログラムについては、JOC から信頼性保証業務にかかわる日本の現状を詳しく説明し、GLPのみならずGCP、さらにはGMPも医薬品開発では重要視されてきており、今度の会議ではこの3分野について最新の情報に接する機会を提供することが、きわめて重要であり成功の鍵となること、そしてそれが参加者を増やすことにもつながることを力説した。当初は渋っていたDr. Morris やISQA側も我々の熱意に負けたのか、最後にはJOC案に歩み寄ってくれた。
 また、欧米の行政官の招聘については、ISQAが責任を持って折衝してくれるとのことで、これで、最大の難関を突破することができ、夜はみんなで祝杯をあげた。

●番外編
 Phoenix滞在4日目の午後、Dr. Avery A. Sandberg がホテルに来訪された。
 Dr. Sandberg は、私が1962年から2年半Roswell Park Memorial Institute (Buffalo, N.Y.)に留学した時の恩師である。この研究所は米国の癌研究所としては最古の歴史を誇り、当時はニューヨーク州立癌研究所として500床の癌病棟を有していた。先生はここのDepartment of Medicine Cという基礎と臨床を結びつける部門の部長をされておられ、白血病の病理診断の傍ら、ヒトの癌や白血病の染色体研究で著名な業績を上げられていた6)
 研究所退職後はPhoenixからすぐ近くのScottsdaleに住んでおられ、ホテルまで会いに来て下さったのである。アリゾナの自然を見せてあげようと近郊の自然公園までドライブして下さった。巨大なサボテンを間近で見るのはこれが初めてであった。Scottsdaleの住宅街にある清楚なご自宅に案内して頂き、奥様にも久しぶりでお目にかかり、家族のこと、研究のことなど積もる話しは尽きず、夕食をご馳走になってホテルまで送って頂いた。先生ご夫妻は、時々来日されていたので、東京や京都でお目にかかっていたが、アメリカでお会いすると一段と感慨深いものがあった。
 Dr. Sandbergは2011年1月に90歳を迎えられ、お世話になった留学生からお祝いのメッセージを差し上げたりしている。

【Dr. Morrisよりの開催延期要請】
 Phoenix 会議のあと、国内の開催準備は着々と進んでいた。ところが、1996年早々に、Dr. Morrisよりとんでもない内容のFAXが舞い込んできたのである。週末ではあったが、私も急きょ上京し、とりあえず大森先生、堤副委員長、三浦財務委員長と対応策を協議することとなった。
 日曜日の昼の渋谷、大勢の若者、いわゆる「シブカジ族」であふれた街に、場違いのところに来てしまったような違和感を覚えながら、忠犬ハチ公前で落ち合い駅近くの喫茶店へ。Dr. Morrisの手紙の内容は、渡航費の工面がなかなかつかず、FDAなどの行政官を連れて行くために開催を半年延期してほしいとのことであった。前年11月以降のISQAの動きが鈍いことは、FAXのやりとりから薄々感じてはいたが、開催まで半年を切った時点になっての延期要請には、怒りよりも呆れかえってしまった。大森先生は眉間にしわを寄せ深刻なご様子で、Dr. Morris の申し入れにどう対応するか悩んでおられ、憤懣やるかたないご様子とお見受けした。この申し入れを受け入れれば、半年の延期どころか、下手をすれば国際会議の開催中止ともなりかねない。4人でいろいろ話し合った結果、もうDr. Morrisの顔を立てるのはやめて、JOC独自で動いて何が何でも開催にこぎ着けようということになり、大森先生から我々3名に今後の対応策の立案を任せて頂いた。

【JOCの対応】
 大森先生とお別れしたあと、堤、三浦両氏と3人でDr. Morrisへの対応を協議した。 結論として、開催延期は会場の手当てや参加登録受付を開始していることから不可能であり、海外行政官の招聘もISQAに任せるのではなく、JOCが主体となってあらゆるルートを使って招致活動を開始する、JOCとしては困難な状況が発生しても予定通り会議を開催する意思を鮮明にして、ISQAには毅然たる態度で臨むこととした。
 また、Dr. Morrisの真の狙いが金の無心ではないかと思わせる節があり、欧米の行政官の渡航費を日本側から何とか引き出そうとの工作としか考えられない面もあった。三浦財務委員長によると、募金も順調で、財政的には多少の余裕が見込まれ、渡航費の一部をJOCで負担することは可能とのことであった。以上について、翌日大森先生に報告し、先生も了解された。ここでようやく、Dr. Morrisの顔を立てるという束縛から脱却し、JOC主体で会議開催に向け活発な活動を展開することとなる。
 Dr. Morris へは大森委員長名で、この時期になって会議の開催延期はできないこと、万難を排して行政官の訪日に全力を挙げてほしいこと、渡航費の援助は一部可能であることなどを伝え、予定通りの開催に更なる協力を要請した。
 これら対応策は直ちにJOCに報告し、JOC委員の多くの先生方の協力を仰ぎ、様々なルートを使って、訪日と講演依頼のアプローチを試みた。また厚生省等、国内行政官の講演と参加についても念押しして確約を頂いた。さらに、FDA等の行政官の来日が容易となるよう、厚生省とFDAとの非公式ミーティングまで設定して頂いた。
 これと同時に、吉田秀雄(大塚製薬、現特別会員)氏の活動が始まった。彼はQA研設立の立役者の一人であり、設立直後は三浦さんとともに会長代行補佐として尽力され、QA研に対する思い入れは強かった。たまたま、1995年頃から吉田氏が大塚製薬の米国事務所勤務となっていたことから、すぐに国際電話で吉田氏へ連絡し、ISQAの動きを伝えた。その上で、吉田氏から、FDAの関係者にアプローチして12th ISQAへの協力を強く要請してくれるよう依頼した。吉田氏はこの大役を快く引き受けてくれ、彼の英語力を駆使して、電話で何回もFDAの担当者と直接交渉をしてくれた。彼の熱意は、米国の行政官にも通じたのか、ほどなくしてFDAから行政官の派遣・講演の朗報がもたらされることになった。

【開会式当日のこと】
 こうして、多くの困難を乗り越えて、準備万端整い1996年6月10日を迎えることとなる。大森先生以下、JOC委員、特に実務的な総務、財務、会場、ソシアル、プログラムの各委員の努力の賜物といえよう。
 さらに、忘れてならないのは事務局を引き受けた潟Cンターグループの担当者の皆さんの活躍であった。特に、責任者の菅原幸史氏(コンベンション部リーダー、ミーティングプランナー)の損得を超えた献身的な活動には、頭が下がる思いで一杯であった。余談だが、この縁でインターグループには2年後の1998年、新大阪で開催した日本環境変異原学会第27回大会の事務局をお願いすることになる。
 今でも目に浮かぶのは、開会式当日の早朝、インターグループのオフィスに行ったところ、堤、三浦、橋爪さん等、主要なメンバー6〜7人が、インターグループの担当者たちと徹夜で最後の仕上げをして、ソファーをベッド代わりに泊まり込んでいた光景である。皆さん疲労と寝不足で眠い目をしょぼつかせながら、それでも全ての準備を「ヤッター!」という安堵感からか、自然と笑みがこぼれていた。これを見て、今日からの国際会議は成功間違いなしと確信した。
 12th ISQAが盛会裡に終了したことは言うまでもない。閉会式の壇上での大森先生の満面の笑みが強く印象に残っている。今、会議の記録集4,5)やAbstracts7)を紐解くと、次々と起こる難問に、皆で一致団結して挑戦していた、あの時の熱気が蘇ってくるような気がする。

【亡くなられた方々】
 この国際会議から2年後、堤さんが急逝された。2006年には大森先生8)とQA研初代事務局長の大野さんが、さらには2008年にはDr. Morris と、私にとって思い出に残る4名の方々が次々と亡くなられ、QA研の発足も国際会議も、何か遠い昔の出来事のよう思われてならない。

堤 淳三 1998年6月30日 逝去
大森義仁 2006年6月 3日 逝去
大野満夫 2006年8月13日 逝去
Carl R. Morris 2008年12月23日 逝去

 ここに、4氏の御霊に、現在の日本QA研究会がGLP、GCP、GMPの三部会制にまで発展したことと、昨年11月に京都でQA研としては2回目となる国際会議(第3回グローバルQA会議)を開催したことをご報告して、慎んで哀悼の意を捧げる。

【エピローグ】
 以上、QA研の設立の経緯や、設立後4年間の記憶に残る出来事を振り返ってみた。新しい団体をゼロから立ち上げることは、経験した者でないとわからない困難の連続であった。QA研設立準備委員会から設立委員会に係わった委員の皆様、さらには発足時の役員の方々の労苦は本当に語りつくせないものがある。こうした先人の努力の甲斐あって、現在のQA研が存在することを、会員の皆様は肝に銘じて頂きたい。
 今年、QA研は創立20周年を迎えた。QA研がどの方向を目指し発展してゆくかは、次代を担う若い会員の皆様方の双肩にかかっている。会員諸氏のこれからの活動に期待したい。また、QA研設立に係わった者の一人として、QA研の会員の中から会長が誕生する日の一日も早からんことを願っている。
 本稿が、QA研の皆様になんらかの示唆を与えることがあれば、望外の喜びである。

 私の行動記録やメモ書きなど散逸したものもあり、記憶を頼りに書いた部分も多い。もし、間違いがあればすべて私の責任であり、ご指摘があれば訂正したい。

文献
4)JOC記録編集委員会.1997. 第12回国際信頼性保証会議記録集.
5)菊池康基. 1996. 第12回国際信頼性保証会議に出席して, 会議を振り返って.ヒューマンサイエンス, 7:32-33.
6)菊池康基. 1984. Avery A. Sandberg博士 −ヒトの癌と白血病の染色体研究−.組織培養, 10:445-448.
7)JOC.1997. Abstracts.第12回国際信頼性保証会議.
8)菊池康基. 2006. 大森先生の想い出.「名誉会員大森義仁氏を偲んで」日本QA研究会会報, 32:197-198.

その1.発端から設立準備委員会立ち上げまで
その2.設立総会まで
その3.国際QA会議

経歴
菊池 康基(きくちやすもと)
北海道大学理学部生物学科動物学専攻卒
理学博士
1962年 2月〜1964年 9月 Roswell Park Memorial Institute (Buffalo, N.Y.)留学
1965年 1月〜1970年7月 国立遺伝学研究所・人類遺伝部入所
1970年 7月〜1993年11月 武田薬品工業(株)入社, 中央研究所薬剤安全性研究所
同社研究開発本部プロジェクトマネジャー, 審議役を経て退職
1993年11月〜2008年5月 轄総ロ医薬品臨床開発研究所 理事
この間、日本製薬工業協会(製薬協) 医薬品評価委員会 基礎研究部会部会長、
ICH Safety EWG (バイオ, 遺伝毒性) 製薬協代表委員、臨床試験受託事業協会理事、副会長、日本SMO協会理事、副会長を歴任。
2008年 6月よりフリー
日本環境変異原学会会員、日本環境変異原学会哺乳動物試験研究会 (MMS研究会)会員
日本トキシコロジー学会功労会員、日本QA研究会特別会員、安全性評価研究会特別会員

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