一 向 庵

医薬品の遺伝毒性試験の黎明期

付記 JEMSよもやま話

元 武田薬品工業株式会社中央研究所(理学博士)菊池 康基

 JEMSにまつわる思い出は数々ある。このシリーズの最後に、この40年間で、私にとって特に印象深く、研究とはあまり関係ない事柄を中心に紹介する。冷や汗をかいたものも少なくない。

よもやま話1:高橋晄正医師のこと(1977年)
 「その1」に書いた高橋医師が、第6回JEMS(武田薬品研修所、吹田)に講演登録をされていた。彼がJEMSに参加したのは、この時限りである。初日に高橋医師とお話しする機会があり、アンチアリナミン小冊子の、明らかな間違いや疑問点などについて、見解を質した。それで分かったことは、ご自身では実験は全くされず、全て他人のデータの流用だったことである。使用するデータの質や信頼性に配慮せず、ご自分の考えに都合のよいデータを基に論述されていた。小冊子に、アリナミンの催奇形性を示す例としてウニの発生異常が表と写真で紹介されていたが、よく見ると、高濃度のアリナミンによる海水の浸透圧の変化に起因する異常であることは明らかであった、他にも表の説明を、故意かどうかは不明だが、アリナミンの危険性を示すように捻じ曲げたり、といった具合であった。
 高橋医師の演題は「防かび剤O-フェニルフェノール(OPP)の変異原性の統計的評価方法」で、公表されているDNA傷害性、変異原性、染色体異常、繁殖力(優性致死試験)のデータを統計的に論じるもので、その内容についてもお聞きしたが、納得できる説明はなかった。驚いたことに、2日目の彼の講演は直前に講演取消となった。ある参加者は、彼の講演を聞いて質問しようと思っていたのにと、残念がられたが。

よもやま話2:T先生のこと(1977年)
 第6回JEMSの2日目の朝からT先生の姿が見えない。下痢のため千里ニュータウンの診療所に行かれたことが昼頃に判明。昨夜の研修所の食事で食中毒?の不安がよぎる中、急ぎ診療所へ。そこの院長から「多分腸炎ビブリオによる食中毒でしょう。T先生の大学に電話したら、ご家族の皆様も食中毒で大学病院へ入院されています。前々日ご自宅で摂られた晩飯が原因でしょう」と聞いて、主催者側のミスでないことが分かり胸をなで下ろす。T先生は引き続き入院されていたが、病状は4日たってもなかなか回復せず、5日目に私が付き添って、伊丹から空路帰宅されることになった。空港には大学から迎えの車が来ており、そのまま私も一緒に大学病院へ直行した。その後しばらくして、快癒されたとの連絡があり、一件落着したが、T先生のお顔は一生忘れられないものとなった。
 その数年後、今度は私がある学会の懇親会の料理で腸炎ビブリオ食中毒にかかり、T先生と同じ経験をすることになるとは、夢にも思わなかった。懇親会の料理が原因とはいえ、食中毒発生となると主催者の責任も問われ、新聞種にもなりかねない。

よもやま話3:ええっ!! Panel Discussionの座長を・・・!! (1981年)
 第3回国際環境変異原学会(ICEM)が東京で開催された時のこと、組織委員会総務委員として、準備に追われていたある日、送られてきたプログラムのゲラ刷りを見て驚いた。というのは、Panel Discussion “Quantitative risk assessment and risk-benefit analysis” の座長にY. Kikuchiと、プログラム編成作業中にはなかった私の名前が載っているではないか。てっきり座長候補に挙がっていた河内卓(国立がんセンター研究所副所長)先生との取り違え(kawachi と kikuchi)と即断し田島先生に電話した。すると、「河内先生は他のシンポジウムの座長に回ってもらうことになり、近藤宗平先生から菊池にやってもらったらいいと推薦があったので決めた。君はまだ聞いていないの」とのこと。びっくり仰天とはまさにこのことである。リスク評価については通り一遍の知識しか持ち合わせていないし、演者の抄録を読んでも何を議論したいのかよくわからない。しかも、co-chairpersonはマウス放射線遺伝学のおしどり研究者として高名なRussell 夫人(Oakridge National Lab., USA)である。にわか勉強をしてもまったく身につくものではなかった。そうこうしているうちに開幕し、ワークショップ前日の打ち合わせで、Russell夫人から「Introductionは自分がするから、あなたにはConcluding remarksをお願いします」と言われてしまった。たまたま、武田の研究所に1年間滞在中のJ. Miller教授(British Columbia Univ., Canada)の助けをお借りして、何とかconcluding remarksを徹夜でまとめ、乗り切ることができた。この時の心境はというと、「どうにでもなれ、後1時間すれば恥をかいたとしても全て終わっている。何とかなるだろう」と居直ったものであった。今、思い出しても冷や汗ものである。
 このRussell先生の下へは、後年、一ツ町君がmouse spot test 習得のため1年間留学することになる。

よもやま話4:どない言おう! 頭の中は真っ白、修善寺(1982年)
 第11回JEMSシンポジウムの出来事である。総合討論で、フロアにおられた杉村隆先生が、討論の内容がお気に召さなかったのか(heritable mutationに議論が偏り、癌原性関連の議論が少なかった?)、「Ames testなど止めてしまえ」という趣旨の発言をされた。とたんに会場はシーンと静まり返り異様な雰囲気に包まれた。誰か発言してこの空気を変えてくれないかと会場を見渡しても、座長の先生も誰も凍りついたように動かない。気が付いたら右手を上げていた。マイクに向かって歩く間、といっても10歩か20歩位だが、ひざはガクガク、なんて言おうと思っても頭の中は真っ白。マイクを握ってもまだ足が震えていた。口をついて出た言葉は・・・、後で友人から聞いたところによると「私もAmes testをしなくて済むならそうしたい。しかし、会場には、レギュレーションに縛られ好むと好まざるとに拘らずAmes testを実施している人も沢山いるので、先生の発言の真意をお尋ねしたい」というような事を言ったそうである。自分では何を言ったのか、また杉村先生のお答も全く覚えていなかった。この発言が穏当であったかどうか分からないが、会場の張りつめた空気がほどけるように変ったのを肌で感じた。そのあとの懇親会の席上、杉村先生が「先ほどのシンポジウムでの発言は適切でなかった」と謝罪され、さすが杉村先生と感じ入るとともに、私自身もホッとした。緊張で膝がガクガクしたのは、初めての学会発表以来、22年ぶりの出来事であった。

よもやま話5:どない言おう! 頭の中は真っ白、その2(1980年代)
 JEMSあるいはMMS研究会の活動を語る時、忘れてならないのは関西学院大学理学部教授の小嶋吉雄先生の存在である。私にとって小嶋先生は北大の同門の大先輩であったが、大学院時代に札幌でお目にかかっても、ウマが合うというか、親しくさせて頂いた。先生の研究室では魚類の染色体研究が盛んで優秀な学生が集まっていた。小嶋先生ご自身はJEMSの会員になったことはなかったが、一ツ町晋也、山本好一の両君が武田薬品で研究の初期段階から活躍したことは「その1」でふれたとおりである。彼ら以外にも環境変異原研究に携わった門下生としては、山ア洋(関学教授)、林真(国衛研部長、JEMS会長)、浅野秀哲(日東電工、JEMS理事、MMS研究会会長)をはじめ、以下お名前だけを記すと、高井明徳、上田高嘉、栗下昭弘、北山英太、等の諸氏である。
 さて、小嶋先生の関西学院大学定年退職の祝賀会が大阪で開催された時のこと、世話人から簡単なスピーチを頼まれていた。先生は大の阪神タイガースフアン、そんなことでも話せばよいと会場に赴いた。関西学院の院長、理事長はじめ教授陣のお歴々、学際的な研究をされていたため他大学の多くの先生方、西宮市長、茨木市長等の行政関係者も多かった。祝賀の宴が始まったが、どうせ出番はずっと後のことと、北大の同級生の瀬戸武司島根大教授と久しぶりに積もる話をしていたところ、「お前の名前を呼んでいるぞ」、ええっと聞き耳を立てると「御来賓を代表しまして武田薬品中央研究所の菊池康基様に・・・」。「なんで俺が・・・、主賓の挨拶だと・・・、どないしよう、何を話そう・・・」頭の中は真っ白、震える膝で演壇のマイクまでたどり着いたが、何を話したのかは全然記憶にない。頭の中は大混乱で、主賓のスピーチとしてふさわしくなかったことだけは確かであった。全くのぶっつけ本番とは正にこのことで、すんでのところで折角のお祝いの席をぶち壊すことにもなりかねなかった。世話人から「急に振って誠にすみませんでした」と謝られても後の祭り。瀬戸君からは「お前、まっ青な顔をしていたぞ。でもスピーチとしては何とかまとまっていたよ」とひやかされたり慰められたりで、人心地ついたのはずっと経ってからであった。後で聞いたところ、小嶋先生の「主賓のスピーチを菊池に」との意向で、祝賀会の直前に差し替えられたため、連絡する暇がなかったとのことであった。でも、こんな経験は二度としたくない、寿命が3年縮まった。

よもやま話6:遺伝研・賀田研究室にて(1980年頃)
 JEMSの評議員会終了後、賀田先生に呼び止められた。私も先生にお話したいことがあったので研究室にお邪魔した。いろいろな話のあと、次期JEMS会長候補について、評議員の中から数名の名前を言われ、どう思うか尋ねられた。私の意見を聞かれた後、賀田先生は突然「君が会長にならないか」と。これまたびっくり仰天。「欧米のEMSでは、企業の人がPresidentになっている。JEMSの発展には企業の協力が欠かせない。日本でも企業人が会長に就いてもよいのではないか」とのお考えであった。私は「会長職をするような能力も智力もない。Mutation Research等に数報発表しただけで、海外に人脈も無いし国際的な活動もしていない。もし会長になったとしても、”Kikuchi, who?”といわれるに決まっている。それと国内の学会で企業研究者が年会長や学会長になったという話は聞いたことがない。仮に先生が推して下さったとしても、反対論が出ることは目に見えている。私にとって、とても有難いお話ですが、日本では時期尚早と思いますが」と御辞退する旨を申し上げた。先生はじーっと考え込んでおられたが「君が適任と思ったのだが、そうだな、まだ少し早いか。数年後にまた考えよう」といわれ、それを聞いて胸をなで下ろした。

よもやま話7:フィヨルド観光(1985年)
 7月に北欧で第4回ICEMが開催され、JEMSからもツアーを組んで参加することになった。コペンハーゲンでのシンポジウムのあと、ストックホルムで本会議。本会議での発表終了後、ヘルシンキへ向かう本隊と別れ、村田元秀、遠藤治、村岡知子の諸氏と4人でフィヨルド見物へ。どうしてこの顔触れとなったかははっきりとは覚えていないが、多分、旅行会社の説明会でこのオプション案に申し込んだのがこの4人だったのであろう。
 日本人ガイドの案内でオスロ行きの列車に乗り込む。幕の内弁当の用意がしてあり、バイキング料理に辟易気味の一行には、またとない御馳走だった。オスロでは、市立ムンク美術館にたっぷり時間を割き、ムンクの数々の作品を心ゆくまで観賞。
翌日、山岳横断鉄道に乗り、ミュルダールで登山電車に乗り換えて、終点のソグネフィヨルド深奥部の小さな町フロムに泊る。三日目、いよいよフィヨルドの2時間半の船旅。残雪の残る高い断崖絶壁、流れ落ちる無数の滝、深緑色の海と、その光景に圧倒された。  
 グッドバンゲン港で下船し、貸切りバスでベルゲンへ向かう。ホテルで夕食後、昔のたたずまいを残す夜の港町を散策、十三世紀のハンザ同盟時代に建てられた木造の三角屋根の建物ブリッゲンにしばし佇み、昔の繁栄をしのぶ。ケーブルカーで登った山上の公園からの見晴しは素晴らしく、ベルゲンの町並みや港を一望できた。東の山の端に昇った白夜の月を眺め、西を望むとまだ茜色に染まっていた。翌朝、港の散歩で茹でたての小エビを買い求める。いくら鮭が美味いといっても、連夜のサーモンステーキ攻めにげんなりしていた一行にはまたとない御馳走となり、ホテルの部屋で全員舌鼓を打つ。この4人組の旅は、予期せぬハプニングがあったりして、誠に楽しいものとなった。
 3泊4日のノルウエーの旅を満喫して、空路コペンハーゲンに戻り、本隊と合流し帰国の途へついた。

よもやま話8:大会記念ネクタイの作製(1998年) 
 第27回大会を大会長としてお世話することになり、会場は足の便を考えて新大阪のメルパルクに決めた。大会長や組織委員会委員は気苦労の多い業務である。大会が無事終了して当り前、何かあれば大会長の責任となるし、寄付集めにもない知恵を絞らざるを得ない。組織委員会の席上、大会運営とは別に、何か遊び心をくすぐるような企画はないかということになった。議論の末、記念品として、小核の写真を使ったユニークなネクタイを作る案が浮上した。早速国衛研の林さんに連絡、写真の提供を快諾されたので、西陣の業者に発注した。普通、ネクタイは一つの柄につき万単位で作るそうだが、予算の都合もあってわずか150本の作製で、原価も1本約7,000円と高い品物になった。
 特別講演やシンポジウムの演者や座長に記念品として贈呈し、残りは会場内で原価即売、評判を呼び即完売となった。下記はネクタイに付けた説明書である。
――――――――――――――――――――――――――――――
The Commemoration of the 27th JEMS, Osaka, 1998
このネクタイは、マウス末梢血赤血球に出現した小核の蛍光染色像を基にデザインした今大会のための特注品です。素材は西陣の最高級品で織り上げています。
This TIE was specially made by high quality Nishijin-ori, and was designed from fluorescence photomicrograph of mouse reticulocyte with micronucleus.
(Original photograph by Dr. M. Hayashi, NIHS)
日本環境変異原学会第27回大会 大会長 菊池康基
Yasumoto Kikuchi Ph.D.
President of the 27th Annual Meeting of JEMS, Osaka

――――――――――――――――――――――――――――――

 最近のJEMSやMMS研究会でも、この小核のネクタイを着用して出席される方がおりうれしい限りである。また、2007年に淡路島で開催された国際シンポジウムでも、「お前が作ったネクタイを締めてきたよ」と声を掛けてくれた海外からの参加者もいて、感激した。
 翌年、西宮で開催された染色体学会第50回記念大会の準備委員長を務めることになった。記念品として、小嶋吉雄先生(関西学院)からの強いご希望に添い、FISH染色したヒト染色体のネクタイ(写真提供はオリンパス光学)を作製した。丹後縮緬の生地にプリントしたため原価も半値以下となり、女性用に作った同じ図柄のスカーフも大好評であった。

よもやま話9:土川清先生と桂山荘(1971〜1990年)
 私が変異原性試験を始めるにあたり、最もお世話になったのが土川先生である。1970年かからお亡くなりになる1991年までの20年間、親身のお世話になった。北大の同門の後輩で、遺伝研にも勤めていたし、それに何よりもマウス優性致死試験の弟子として、可愛がって頂いたということになろう。土川先生のご業績については多くの方が書かれているので、私的な先生の素顔についての思い出をいくつか。
 1971年秋、「今夜は修善寺の馴染の宿に泊りましょう」と先生の車で案内して頂いたのが桂山荘であった。温泉に入り夕食を頂きくつろいでいると、女将が家族の居間に案内してくれ、酒盛りが始まった。宿のご家族との団欒は私にとって初めての経験であったし、先生の黒田節を聞いたのもこの時が初めてであった。
 そのうち、桂山荘は優性致死セミナーやMMS研究会の定宿のようになり、先生が亡くなられるまで続いた。
先生の還暦のお祝いも桂山荘の広間で盛大に行われた。私は、ギターとマイクを持った2匹のガラス製マウスと、土川 清・琴代 先生ご夫妻のお名前を読み込んだ歌をお贈りした。

まを恋いて
とせののちも
かわらじと
きよし今宵の 月に
ことよ

よもやま話10:雪中ドライブ(1985年頃)
 ある年の冬、MMS研究会の幹事会が桂山荘で開かれることになった。当日、国衛研の別の会議に出席し、夕刻祖父尼さんの車に便乗させてもらう。用賀を発つとき、白いものがちらちらしていたが、東名高速に入った時には本降りとなり、しばらくすると本線上で立ち往生、止まった車の長蛇の列で、高速道路は閉鎖されてしまう。走行車線のど真ん中でタイヤチェーンを取りつけるなどまたとない経験。後ろの車はバッテリーがあがってSOS、仕方がないので祖父尼さんが車を方向転換して、nose to nose で充電してあげる。これも困った時の人助けか。サービスエリアに近かったので、20p位積った雪の中を踏み跡たよりに歩いて行って、遅れる旨宿に電話し、お湯を入れてもらったカップラーメンを買って車の中で食べた。19時頃に着く予定が、夜中の12時過ぎになってしまったが、土川先生はじめ全員が我々の到着を待ちわびてくれていた。熱い温泉につかり人心地を取り戻し、晩飯を食べ終えたら2時過ぎ。結局、幹事会は翌朝回しとなった次第。

よもやま話11:土川先生と釣り(1980年前後)
 「今度の優性致死セミナーのあと、釣りに行きましょう」とのお誘いを受ける。当日のセミナー会場は三島市内の三和銀行の会議室。渓流釣りの道具一式を持って、入口をはいろうとすると守衛さんに呼び止められた。恰好から不審者と間違われたらしい。
 翌朝、土川先生の車で沼津郊外西伊豆へ。この辺では、天然の小アユが小さな川へ遡上し、餌釣りができるとのこと。目的地の小川へ到着し早速釣り始める。短めの渓流竿に目印用の玉浮きをつけ、返しのないすれ針に蒸したシラスをちょん掛けして、そっと流し込むとすぐに魚信があり、10p程のアユがかかってきた。小さなアユだが、穂先の柔らかい竿なので、引きも十分に楽しめる。次から次へと当りがあり、釣り場所を上流へ移動しながら、アユの餌釣りを堪能した。川の両岸は一面のミカン畑で、空気も美味しい。釣りに疲れると、先生の奥様手作りのお弁当を御馳走になったものである。
土川先生は、海釣りも好きで、研究室の人達としょちゅう行かれていたので、沼津周辺の情報には詳しかった。私もアユ釣りや海釣りに何回かご一緒したが、大阪から出向くのには限りがあり、思い返せばそれが残念であった。

よもやま話12:土川先生ご夫妻とカラオケ(1971〜1990年)
 三島での会合のあと、土川先生から「何か食べに行きましょう」とお誘いを受ける。先生は三島や沼津の美味しいお店に詳しく、いろいろなところへ案内して頂き、食事をしながら種々お話を聞くのが私の楽しみとなった。食事のあとはカラオケスナックへ、そのうち奥様も同行されるようになった。奥様 琴代夫人は歯科医として地元の病院に勤務されていた。お二人とも歌がお上手で、新曲もすぐに歌いこなされていた。「菊池さんも新曲にトライしなさい」とはっぱを掛けられたものである。私にとって先生は歌の師匠でもあり、持ち歌が沢山出来たのも先生のおかげである。
 不思議なことがある。先生と歌っていると、それまで空いていた店に次第に客が入り込んでくる。すると「次の店に行きましょう」とカラオケのはしごがはじまり一晩に3軒くらい。店のママたちに聞くと「土川先生は福の神よ、先生がお歌いになると、決まってお客様が来て下さるの」とのことで、どこの店でも先生はモテモテであった。
 東京でJEMSが開催された時、六本木の私の馴染の店にご夫妻をご案内したことがある。お二人とも大層喜んで、何曲も歌って下さった。

よもやま話13:土川基金のこと(1994〜2008年)
 土川先生の死後、奥様が私財、約3千万円を投じて「公益信託土川記念哺乳動物研究助成基金」を創設されたことは皆様もよくご存じであろう。先生ご夫妻が結婚間もない頃、遺伝研で共同研究をされていた時に、研究費が少なく大層苦労されたことがあった。ご夫妻にはお子様がなく、先生の遺産の一部を、研究費に恵まれない若い研究者のために使いたいとの奥様の強い思いから実現した。1994年春、日本信託銀行(現三菱信託銀行)と基金運営についての予備折衝が始まり、12月には琴代夫人と銀行との間に契約書が結ばれた。
 私も運営委員の一人として、基金の運営や助成対象者の選考に関わった。運営委員会は東京丸の内の三菱信託銀行会議室あるいは銀行協会の会議室等で年1,2回開催され、基金終了の2007年迄、13年間続けられた。
 琴代夫人は、基金終了の直前の2006年6月にお亡くなりになり、終了の報告をできなかったことは残念であった。2008年のJEMS沖縄大会で、土川記念特別シンポジウムを開催すると共に、受賞者による受賞論文のポスター発表のコーナーを設け、これら一連のイベントにより土川基金は完全に活動を終了した。
 土川清先生、琴代先生、長い間本当にありがとうございました。

よもやま話14:功労賞受賞(2002年)
 民間企業に勤めるかぎり、学会の賞の類は無縁なものと思っていた。ところが、2002年に新設された功労賞の第1号の栄に浴することとなった。受賞の表題は「In vivo 遺伝毒性試験の基礎的研究とガイドラインへの適応」で、長年携わってきた研究成果と各種ガイドラインへの取り組みが評価されわけである。この受賞は私一人の栄誉ではなく、社内・社外(MMS研究会や製薬協・基礎研究部会)の多くの共同研究者を代表して戴いたものと思っている。このことは、とりもなおさず、企業における遺伝毒性研究の基礎研究の充実とレベルの高さが認められたことになる。
 その後、企業人では、2006年に島田弘康(元第一製薬)、2009年に浅野哲秀(元日東電工)の両氏が功労賞を受賞された。島田氏は、製薬協のガイドライン検討(1982年)の時から基礎研究部会を通して30年来の仲間で、私がこの分野に引きずり込んだとも言えなくもない。ICHでは私の後任として活躍され、最近ではJEMSの監事でも一緒になった。浅野さんは「よもやま話5」にも書いたように、小嶋門下で関西在住、しかも日東電工という製薬企業とは異質の会社で、研究環境としては必ずしも恵まれない中で頑張って来られた。MMSの共同研究ではコーディネーターとしての手腕を発揮され、MMS会長、JEMS理事の要職もこなされた。お二人の受賞は、民間企業に籍を置いていた身にとっては誠に喜ばしいことであった。
 2004年に、今度は日本トキシコロジー学会の功労会員に推挙された。製薬協・基礎研究部会長の私を補佐して下さった副部会長の小野寺威(元第一製薬)、増田裕(元三共)、佐久間定重(元アップジョン)の3氏も同時に功労会員に推挙されたことは、われわれの基礎研究部会での毒性試験への取り組みとトキシコロジー学会への寄与が高く評価されたわけである。

【終わりに】
 私が遺伝毒性の研究に取り組んで丁度40年経過した。これまでの私の研究の歩みを振り返ってみると、節目節目で先端的な研究に恵まれてきた。大学院博士課程では、牧野教授の下での「日本人の染色体研究プロジェクト」(1960〜1962)、米国留学では前年から始まっていた「Autoradiographによるヒト染色体の複製研究」および「ヒト癌・白血病の染色体研究プロジェクト」(1962〜1964)、遺伝研では「ダウン症の細胞遺伝学的研究」(1965〜1970)といずれも当時の新分野の研究であった。遺伝毒性の研究でも、わが国のパイオニアの役目は果たせたと信じている。武田薬品を定年退職後、轄総ロ医薬品臨床開発研究所に15年勤務した。この間、それまでとは全く異なる臨床試験(治験)分野ではあるが、臨床試験受託事業協会(臨試協)と日本SMO協会の副会長として、治験受託業界の発展と治験の質の向上にささやかながら資することができたのも、長年の研究活動で培った経験を生かすことができからであろう。
 私のこれまでの経験が、企業の研究者、特に若い研究者の方々に何らかの示唆を提供できたならば、この上なく嬉しいことである。
 この11月で齢77となる。自分の歩んできた道を、このような形でまとめる機会を与えて頂いた、潟Cーエスサポートの横田二三夫社長に深甚の謝意を表し、結びとする。

- 完 -

医薬品の遺伝毒性試験の黎明期

第1回(その1 武田薬品時代)
第2回(その2 環境変異原研究会設立の頃)
第3回(その3 AF-2 物語)
第4回(その4 製薬企業の対応)
最終回(付記  JEMSよもやま話)

経歴
菊池 康基(きくちやすもと)
北海道大学理学部生物学科動物学専攻卒
理学博士
1962年 2月〜1964年 9月 Roswell Park Memorial Institute (Buffalo, N.Y.)留学
1965年 1月〜1970年7月 国立遺伝学研究所・人類遺伝部入所
1970年 7月〜1993年11月 武田薬品工業(株)入社, 中央研究所薬剤安全性研究所
同社研究開発本部プロジェクトマネジャー, 審議役を経て退職
1993年11月〜2008年5月 轄総ロ医薬品臨床開発研究所 理事
この間、日本製薬工業協会(製薬協) 医薬品評価委員会 基礎研究部会部会長、
ICH Safety EWG (バイオ, 遺伝毒性) 製薬協代表委員、臨床試験受託事業協会理事、副会長、日本SMO協会理事、副会長を歴任。
2008年 6月よりフリー
日本環境変異原学会会員、日本環境変異原学会哺乳動物試験研究会 (MMS研究会)会員
日本トキシコロジー学会功労会員、日本QA研究会特別会員、安全性評価研究会特別会員

▲ページトップ