一 向 庵

医薬品の遺伝毒性試験の黎明期

その1 武田薬品時代

元 武田薬品工業株式会社中央研究所(理学博士)菊池 康基

はじめに
  大阪万博たけなわの1970年7月、武田薬品工業樺央研究所に赴任し、医薬品の新しい毒性試験として、変異原性試験(遺伝毒性試験)と取り組むことになった。そこで、武田薬品の研究所の中でどのようにして新しい試験法を確立していったのか、環境変異原研究会(JEMS、のちの学会)設立前後のエピソード、 また、製薬業界はどの様に対応していったのかなど、記憶と資料を頼りに当時のことを思い起こしつつ、1970年代に起こった事柄を書き留めることとする。

  1. 【1960年代の遺伝毒性の世界的動向】
     米国では1960年代後半に、化学物質が突然変異を誘発する危険性が指摘され始め、国立の研究機関等で基礎的な研究が行われていた。1969年には農薬について変異原性試験の実施が提唱され(US department of Health, Education and Welfare, 1969)、翌年には医薬品についても同様の勧告が提出された(US FDA,1970)。また、1969年には米国環境変異原学会(Environmental Mutagen Society, 略称EMS)が、1970年には欧州EMSがそれぞれ設立された。
  2. 【武田薬品への転職の経緯】
      このような状況下で、武田薬品・中央研究所の梶原彊博士は、わが国でも一日も早く医薬品について遺伝毒性を評価すべきであると考えられ、1969年に私に武田薬品への入社を打診された。
     私は、北海道大学理学部生物学科動物学専攻を卒業後、大学院に進学し、牧野佐二郎教授のもとで、ヒトの染色体研究の道に入って10年目の節目を迎えていた。当時、私は静岡県三島市にある国立遺伝学研究所(遺伝研)人類遺伝部に5年前から在籍していた。各種先天性疾患の染色体異常との関係解明がメインテーマであった。特に、ダウン症の染色体研究を広範囲に展開していたが、この頃私自身あるジレンマに悩まされていた。というのは、染色体研究のスペシャリストとはいえ、医師でもない者が、患者相手の研究にどこまで入ってよいのか、患児の両親から悩みを打ち明けられても、対処のすべがない、といったことがあったからである。ヒトの染色体研究を手掛ける医師も増えつつあったことから、機会があれば動物相手の研究に戻るべきではないかと心のうちで思案していた。そんな時に、梶原先生からのお話があったわけである。
     とは言え、転職先が製薬会社というのは、全く想定外のことであった。また、遺伝毒性についても予備知識はあまり持ち合わせていなかった。ただ、放射線による突然変異研究について、多くの諸先輩からその難しさについて聞かされていたので、化学物質による突然変異誘発研究の困難さもおぼろげには予測できた。
     梶原先生は、恩師の牧野教授の友人で、大学院生の時に札幌でお目にかかっていたし、梶原先生がCancer Research に発表された論文1)は大学院生の時の必読論文でもあった。また、私が米国留学中に訪ねて来られたこともあり、よく存じ上げていた。梶原先生は東大から武田薬品に移られて、中央研究所内に薬剤安全性研究施設を立ち上げられたこと、催奇形性試験(現在の生殖試験)をいち早く導入されたことでも知られている。梶原先生とは二度お目にかかってじっくりお話を聞き、毒性の新分野を開拓するのも研究者としてやりがいのある仕事と、転職を決意した。
  3. 【変異原性試験開始当初】
     大阪の十三にある武田薬品・中央研究所・薬剤安全性研究所(薬安研)に配属となり、催奇形性試験の研究室に細胞培養室があったことから、研究室の一隅を借りて研究を開始することになった。この研究室のリーダーは、北大の2期先輩の水谷正寛博士であり、企業研究所について何も知らぬ私の面倒をいろいろとみていただいた。
     すでに述べたように、米国では1969年に農薬について変異原性を評価するために、優性致死試験、宿主経由試験および in vivo 染色体試験の3種を実施するよう勧告が出され、1970年には医薬品についても同様の勧告が出たところであった。1969年設立の EMSからは Newsletterが発行されていた。そこで、これらの勧告書や Newsletter を取寄せて、薬安研としての変異原性試験の短・中期計画の検討に着手した。その結果、下記の4試験について実施可能の結論が出た。
     @マウス骨髄と精巣の生殖細胞によるin vivo 染色体異常試験
     A各種培養細胞による in vitro 染色体異常試験
     Bマウス優性致死試験
     C大腸菌を用いる突然変異試験および宿主経由試験
     (財)発酵研究所(中央研究所とは別組織)との共同研究で実施
     染色体異常試験は私の専門領域であり、すぐの実施に特段の問題もないことから、8月には水谷研究室の研究補助者の協力を得て、in vivo 染色体異常試験と in vitro 染色体異常試験について、mitomycin C、 triethylenemelamin、caffeine等の陽性対象の back ground data を収集するための試験をスタート、培養細胞も試験に必要な細胞株は揃っていた。染色体の切断や転座等の顕微鏡下での観察には、長年の経験が大いに役立った。
     9月に入り、優性致死試験の予備実験に着手した。動物飼育室に入るのは10年ぶりだが、設備の整った飼育室は初めてで、ベテランの研究補助員に助けられながら、マウスへの投与や交配を行った。妊娠13日目の雌マウスの屠殺と子宮から取り出した胎児観察は、思っていた以上に大変な作業であった。
     優性致死試験を実施するに当たっては、遺伝研の土川清先生に種々ご指導を頂いた。土川先生は、北大の先輩でもあり、私が遺伝研在職中にもマウスの遺伝のことでいろいろ教えを受けたこともあった。米国の参考文献や newsletter などを読んでもよくわからない事項、試験に使用するマウスの系統、交配のスケジュール等について、三島に伺っては直接御指導を仰いだものである。Mitomycin C を投与したマウスで、優性致死効果が明らかに認められたことから、新試験法の本格実施に向け自信を持つことができた。
  4. 【アリナミン有害説と企業防衛】
     アリナミンは武田薬品が1954年に発売を開始したビタミンB1誘導体である。以来55年以上の長きにわたって売れ続けている超ロングセラー製品として知られている。他の製薬会社も類似のB1製剤を続々と販売していた。この風潮に疑問をもったのか、東大医学部物療内科の高橋晄正医師は1960年代にアリナミン無効説を唱えていたが、その内容は次第に過激になり、1970年にはアリナミン有害説を主張して小冊子迄配布したり、翌年には発売禁止を求める意見書を厚生省に提出するまでになった(高橋晄正;wikipedia.org/wiki/ より引用)。武田薬品では、アンチアリナミンキャンペーンに科学的に対応するため種々の手を尽くしていた。アリナミン有害説に対しては、それまでの毒性試験データの再評価や追加試験の実施に加え、新たに催奇形性試験を実施したりしていたが、それに加えて変異原性試験も至急着手することとなった。11月から実施したアリナミンの優性致死試験と染色体異常試験の陰性結果は1971年に予報として発表した2)。この論文が、医薬品で実施した遺伝毒性試験の本邦第一号である。
     入社当時、研究所内でも変異原性とか遺伝毒性とか言っても、なかなか理解してもらえないこともままあったが、アリナミンの試験が成功したことによって、新しい毒性試験として認知された。以後、アリナミンは我が家でも常備薬となった。
  5. 【遺伝毒性研究室の整備(1971〜1972)】
     1971年春、一ツ町晋也君が入社。私の大学の大先輩で、関西学院大学教授の小嶋吉雄先生からの推薦であった。小嶋先生からは大阪に来て間もなく「今イスラエルのワイズマン研究所に留学中の一ツ町がもうすぐ帰国するので、来春採用してほしい」とのお話があり、入社はすんなりと決まった。研究補助者も入れて3人体制となり、実験もスムーズに流れるようになった。一方、高槻市に薬剤安全性研究所を新築する計画も順調に進み、1972年に移転が決まった。
     さて、大腸菌を用いる突然変異試験については、武田の中央研究所とは別組織の財団法人発酵研究所の飯島貞二博士の研究室との共同研究で進めることとなり、アリナミンについての試験結果3)が報告されるとともに、宿主経由試験についても基礎実験を開始した。
  6. 【遺伝毒性研究室の発展(1973〜1980)】
     アリナミンについては更に試験を追加して最終論文として発表した4)。新薬の候補化合物についても染色体異常試験や優性致死試験などを実施するようになり、これらの成果の多くは論文として公表した。1973年には一ツ町君の後輩の山本好一君が入社し、基礎研究にも時間を割くことができる体制が整ってきた。

     優性致死の成因解明:
    まず取り組んだのがこの問題である。優性致死の原因が受精卵における染色体異常によるのではないかと以前より言われていたが、それを実証した研究はなかった。一ツ町君がこの解明に意欲を燃やしていたので、哺乳類の卵の染色体研究の第一人者である旭川医大の美甘和哉教授の下で、受精卵の染色体標本作製の技術を習得し、実験に取り掛かった。Triethylenemelamin (TEM) 投与の実験で、染色体に傷害を受けた精子が受精していることが、顕微鏡下に鮮明に実証された5)。
     これには余談がある。Mutation Reseach 誌へ急ぎ投稿するべく論文執筆中に、送られてきた同誌の最新号に Brewenら6)がmethyl methanesulfonate (MMS) 投与の実験で、卵の染色体観察に成功した論文が掲載されていて、先を越されてしまってがっくり。人間の考える事は同じと見え、あとは、どれだけ早く実行に移し結果を出すかの勝負となることを身に沁みて思い知らされた。負け惜しみを言えば、一ツ町君の卵の染色体の写真は、Brewenらの写真と比較にならぬくらい、まことに見事な鮮明なものであった。

     小核試験の導入:
    化学物質による染色体異常誘発性に関する研究に比べ、放射線による染色体異常の研究ははるかに歴史も古い。Heddle や Schmid の小核試験の論文を先輩の放射線細胞遺伝学の研究者の意見を聞いたところ、ほとんどが懐疑的であった。その理由は染色体異常と小核形成のメカニズムが明確でない、小核を観察したとしても最終的には染色体観察が必須で二重手間である、というものであった。
     しかしながら、化学変異原の研究の場を考えると、in vivo, in vitro 染色体異常試験はその多くが企業研究所あるいは受託研究機関で実施されると予測された。分裂中期の染色体を観察して、切断や転座を同定できる研究者や技術者の絶対数は不足しており、より簡便な試験法でないと、普及は難しいと考えざるを得なかった。
     そこで、小核試験について我々でその有用性を検討することとし、1977年に山本好一君を中心として基礎的な検討に入った。翌1978年の第2回環境変異原研究会(JEMS)で山本君が発表7)したのが小核試験の本邦初演となった。彼は1979年から1984年にかけて英文、邦文の論文を6報ほど立て続けに発表し8)、9)、小核試験の我が国における先駆者の地位を確立した。

     微生物試験:
     1975年には、発酵研究所の飯島博士の下で試験を担当していた、坂本豊君のグループが我々と合流し、微生物から哺乳類までの変異原性試験が一括実施できる体制が整った。微生物の試験としては、rec assay(DNA 修復試験)、大腸菌、サルモネラ菌(Ames株)による復帰変異試験がルーチンに行えるようになった。坂本君はルーチン試験の手技の改良や、S-9 Mix の改良、新菌株の導入など積極的に行なった。   

    製薬業界における指導的地位の確立:
     こうして、遺伝毒性に関するルーチン業務と基礎的研究は順調に進み、社内報告書、論文発表、学会等での口頭発表も次第に増えていった。染色体異常試験は言うに及ばず、優性致死試験や小核試験にもいち早く取り組んだことが、国内での先駆的な業績を上げることにつながった。このことは、多くの良き先輩のご指導と、一ツ町、山本、坂本など優れた共同研究者に恵まれたおかげである。彼ら3名は主担した研究により後日学位を取得した。また、JEMSの第6回研究発表会を武田薬品の研修所で開催することができたのも、われわれの研究がJEMSでも認められたからこそで、望外の幸せであった。
     次の問題は、われわれが蓄積した、技術、経験、データをいかにして広めるかということになる。大学や国公立研究機関と異なり、企業研究所に所属する研究者にとっては、企業秘密という壁もあり、頭の痛い問題であった。これについては項を改めて書くことにする。

文献

1)

Kaziwara, K. 1954. Derivation of stable polyploidy sublines from a hyper diploid Ehrlich ascites carcinoma. Cancer Res., 14:795-801.
2) 菊池康基,水谷正寛,梶原彊.1971. Thiamin tetrahydryfurfuryl disulfide hydrochloride のマウスにおける優性致死突然変異試験および細胞遺伝学的観察(予報).武田研究所報. 30:762‐770.
菊池康基. マウスにおけるmitomycin C誘発優性致死突然変異と染色体異常. 日本遺伝学会第44回大会, 岡山, 10-8-1972.
3) 飯島貞二, 梶原彊. 1971. 武田研究所報, 30:771.
4) 一ツ町晋也, 菊池康基. 1975. Thiamine tetrahydrofurfuryl disulfide hydrochlorideの突然変異性試験. 武田研究所報, 34:509-515.
5) Hitotsumachi, S. and Y. Kikuchi 1977. Chromosome aberrations and dominant lethality of mouse embryos after paternal treatment with triethylenemelamine. Mutat. Res., 42:117-124.
6) Brewen, J.G.et al. 1975.Studies on chemically induced dominant lethality. 1 The cytogenetic basis of MMS-induced dominant lethality in post meiotic male germ cells. Mutat. Res., 23:239-250
7) 山本好一, 一ツ町晋也, 菊池康基. In vivo及びin vitroでの小核と染色体異常の誘発. 日本環境変異原研究会第6回研究発表会, 吹田, 9-16-1977.
8) 山本好一, 菊池康基. 1979. 小核試験に関する基礎的検討(第1報). 染色体異常誘発と小核誘発との相関性. 武田研究所報, 38:57-61.
9) Yamamoto, K. I. and Y. Kikuchi 1980. A comparison of diameters of micronuclei induced by clastogens and spindle poisons. Mutat. Res., 71:127-131.

$ 試験法の解説 $
 染色体異常試験(Chromosome aberration test)

 被検物質で処理して細胞の分裂中期における染色体異常を観察する試験。げっ歯類に被検物質を投与し骨髄細胞あるいは精原細胞などで染色体異常を観察する in vivo 試験と、哺乳類の培養細胞を用いる in vitro 試験などがある。

 優性致死(突然変異)試験(Dominant lethal mutation test)
 雄マウスに被検物質を投与し、無処理メスと交配する。減数分裂終了後に雄の生殖細胞(精子細胞〜精子)に生じた染色体異常は、受精後に胚の初期死亡および付着庄を引き起こすので、これを指標とする。減数分裂前の精原細胞および精母細胞に染色体異常が生じた場合には、減数分裂の過程で死滅して精子数の減少をきたし、不妊あるいは不受精卵が増加する。この妊性の低下も優性致死試験の指標の一つとなる。本試験は化学物質の遺伝毒性を評価する in vivo 試験として、1960年代から1980年代にかけて強く推奨されていた。しかし、使用するマウスの数が多く試験規模も大きく試験期間も長くて、実験動物愛護の面から好ましい試験とは言えないことなどから、1990年代に入ると殆ど実施されなくなった。

 宿主経由試験(Host mediated assay)
 マウスなどの宿主動物の腹腔内に試験用の微生物を注入したのち、宿主に被検物質を投与し、一定時間後に腹腔より回収した試験菌の突然変異頻度を調べる試験。哺乳類の代謝物の変異誘発性を調べることができる試験として、1970年代に推奨されていたが、その後 微生物を用いる in vitro 試験にS-9 mix が汎用されるようになると、手法の難しさ、データの再現性や精度の低さなどから実施されなくなった。

 小核試験(Micronucleus test)
 小核試験は1973年にHeddle と Schmid によってそれぞれ独立して開発された試験である。染色体異常を直接観察する代わりに、染色体切断や紡錘体機能の阻害作用の結果形成される小核を観察することによって、染色体異常誘発能推定する方法である。実際には、被検物質を投与したマウスの骨髄あるいは末梢血の塗抹標本で、赤血球中の小核の出現頻度を調べる方法がとられる。

 レックアッセイ(Rec - assay)
 枯草菌を用いて化学物質のDNA損傷性を検出する試験系。枯草菌にはDNA損傷に対し、組換え修復能を有する野生株と修復欠損株があり、欠損株はその生育が強く阻害される。したがって、野生株に比べて欠損株の生育を著しく阻害する化学物質はDNAに損傷を与えていることを示す。この方法は賀田恒夫博士(遺伝研)が開発されとこともあり、1980年代までわが国で汎用された。

 復帰変異試験(Reverse mutation test)
 微生物を用いて化学物質によって誘発された復帰突然変異を検出する試験。試験菌株としてはB. N. Ames が開発したネズミチフス菌や大腸菌などが用いられる。代謝活性化系としてS9 Mix を加えた試験も行われている。化学物質の遺伝毒性の検出、癌原性のスクリーニングとして広く用いられている。

医薬品の遺伝毒性試験の黎明期

第1回(その1 武田薬品時代)
第2回(その2 環境変異原研究会設立の頃)
第3回(その3 AF-2 物語)
第4回(その4 製薬企業の対応)
最終回(付記  JEMSよもやま話)

▲ページトップ